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ツナを研究するに至った関根さんの20代から40代に迫る
たった一人の熱狂から世界が動き出す想いをインタビューする「On the One」。今回お話を伺ったのは、焼津にギフト用のツナを販売する「TUNALABO」を運営する関根仁さん。高校卒業からTUNALABOを設立するまでの生き様と挫折、サクセスストーリーを伺いました。
(「TUNALABO」を運営する関根仁さん)
関根 仁さん
1977年生まれ。福島県出身。株式会社JIN代表。
18歳で上京し、偶然に魚屋で働き始めたことで人生が大きく動き始める。30代では和食屋さんをオープンし、仕事終わりに余った材料を使ってツナの研究に勤しむ日々を送り、40代でそれを商品化。
現在は、静岡県焼津市に拠点を置く「TUNALABO」を立ち上げ、ギフト用ツナの販売を行っている。
自由を求めて福島から東京へ
編集長 ケンフィー福島出身で、焼津に「TUNA LABO」をオープンしようと思ったところから改めて聞かせてください。
関根 仁さんまず福島から東京に出てきたのは18歳の頃でした。当時は就職で上京しましたが、東京に来た理由は「遊びたかったから」だったと思います。
最初はパン屋さんで1年ぐらい働きましたが、指を切断してしまい、一旦実家の福島に帰ることになりました。でも、また東京に行きたくて、2回目は実家を飛び出して東京に来たという感じですね。
編集長 ケンフィー自由を求めて家出したという感じなんですね。
関根 仁さん自由を求めてというより、同じ場所にいても結果が出ない人って、同じ土俵で勝負できなくなると、外に出て、違う土俵に行きたくなるんです。
編集長 ケンフィーそうなんですね。その後、どのようなお仕事をされたんですか?
関根 仁さん当時の自分は、本当にカッコつけてばかりいて、飲食店を転々として働いていました。それで22〜23歳の頃に、手に職もついていない自分に焦りを感じて、最低限ご飯と味噌汁の定食ぐらいはちゃんと作れるようになろうと思って、下町の和食屋さんで働き始めました。
編集長 ケンフィー22歳の頃が分岐点になったんですね。
関根 仁さんその店の横にあったのが魚屋さんで、魚を触るのがすごく楽しくなったので、日中は魚屋さんで働き、夕方から夜中まで和食屋さんで働く毎日でした。
編集長 ケンフィー魚を触るのが楽しいというのは、具体的にどういったところでしょうか?
関根 仁さん魚をおろしたり、築地に行って仕入れをしたり・・。働いていた場所が、下町だったので、落語の世界を見ているような感じで、とても面白かったです。
編集長 ケンフィーダブルワークでほぼ1日中働いていたという感じなんですね!
関根 仁さんそうです。朝、築地に仕入れに行くために、朝6時頃には家を出て、帰ってきて仕事が終わるのは23時〜24時とかでした。そこからバイクで1時間かけて帰宅していました。
編集長 ケンフィー片道1時間もかけて通勤してたんですね!
関根 仁さんいま思えば楽しかったですけどね。
30代での起業とツナ研究の始まり
編集長 ケンフィー20代はそのような毎日を過ごしていたという感じなんですか?
関根 仁さんそうです。20代はそうやって過ごして、30代になってお店を立ち上げました。
編集長 ケンフィー魚屋さん関係のお店ですか?
関根 仁さん本当は魚屋さんをやりたかったけれど、今やスーパーで野菜も魚もまとめて手に入るので、その手間を考えると「魚屋じゃ食っていけない」と思っていました。なので、飲食店で起業しました。
編集長 ケンフィー起業という大きな決断をされたんですね!その決断に至るまでには、どのような考えがあったのでしょうか?
関根 仁さん「魚専門の小料理屋さんで、いずれは自分の店を出す」とずっと周りに言っていました。ですが、30歳でもお店を出さなかったら、このまま一生出さないだろうと思い、決断しました。
編集長 ケンフィーだからこそ、30歳をきっかけに、お店を立ち上げたんですね。
関根 仁さんそうですね。ただ当時は、お金の借り方も分からなかったし、お店の立ち上げ方も分からなかったので、全部イチからでした。
編集長 ケンフィー具体的にはどういったところが苦労しましたか?
関根 仁さん例えば資金面では、お金を借りようと思っても借りられる状態にありませんでした。当時働いていた魚屋さんと和食屋さんが、住民税など払っていないことが発覚し、その影響でお金を借りることができませんでした。
編集長 ケンフィー自分のせいではないにしても、お金が借りれないのは大変ですね。それで、どうされたんですか?
関根 仁さん仕方ないので、親から借りました。
編集長 ケンフィーそこから東京で飲食店を経営されてきたと思いますが、ツナも取り扱っていたのでしょうか?
関根 仁さん実は、東京で和食屋さんをやりながら、ツナを作っていました。と言っても、商品化はだいぶ後になるのですが、その日に余ったマグロでツナを作ったら、美味しくできたんですよね。そこから、これを商品にできるかなという発想で、「オイルを変えたらどうなるかな」とか、「レシピを変えたらどうなるかな」という感じで、ツナの研究が始まったわけです。
編集長 ケンフィー本当に魚がお好きなんですね!そこからは試行錯誤の連続だったんですね。
ツナ商品化への道と新たな困難
関根 仁さんそこからは、材料、分量などを細かく調整して研究していました。ただ妻と出会って、子どもができると、自分が倒れたら家族もろとも立ち行かなくなるので、飲食店をやめて転職しようと思っていた時期もありました。
編集長 ケンフィー自分がいないとお店は回らないですもんね。
関根 仁さんはい。あと、どんなに妻や子どもが具合悪くても、お店の予約が入ったら看病すらしてあげることもできないのも心苦しかったです。親や兄弟からも、飲食店を閉じて転職した方がいいと言われていたので、もう1人で好き勝手できるのは終わりかなと感じましたね。
編集長 ケンフィーそんな中、飲食店も続けられて、さらにツナを商品化させる道を選んだわけですね。
関根 仁さん転職も考えていましたが、「ずっとツナを研究してきてて勝算がある。 絶対このツナだったら売れる。だから、ちょっと挑戦させてほしい」って言って、その道を選びました。
ここでやらなかったら、ずっとモヤモヤして人生終わりそうだったので。
編集長 ケンフィー30代では、ここでやらなかったらこの先やらないからという決意で、お店を立ち上げましたが、40代ではここで挑戦しなければこの先後悔するという決意で前に進んだんですね。
関根 仁さんはい。ただ30代の時の決断と40代の決断はちょっと違います。30代の時の決断は見栄で、40代の時の決断は確信です。誰も信じてくれなかったけど、絶対行けるという確信がありましたね。
編集長 ケンフィーそれほどまで未来が見えていたんですね。
関根 仁さん40歳になってお店を閉めて、ツナの販売をやり始めたんですが、今度はツナを売るのにあたって何が必要か分からず、困りましたね。自分は20代から魚に携わって生きてきて、料理もやってきたので、ツナなんて簡単だろうと思っていましたが、お店閉めて販売を始めようとしたら、いろいろと問題が発覚しましたね。
編集長 ケンフィーお店で提供するのと、物販で提供するのはかなり違うのですか?
関根 仁さん今までお店で提供していた時は、調理してすぐに食べてもらうから、保存を気にしなくても良かったですが、販売するとなると、オイルで満たして、空気も入らないようにしているのに、検査に出したら1日も持たないって言われましたね。
編集長 ケンフィー今までお店だった場合とは違う、別の技術が必要だったんですね。
関根 仁さんそこから、いろんな会社や検査機関に連絡して、中にはもう飛び込みで工場見学させてもらってやったりして、保存について徹底的に勉強しました。
調べれば調べるほど、今まで研究してきたレシピを白紙に戻さなければいけなくなりました。
関根さんの今後の挑戦については“焼津まちリポ”で掲載予定
関根さんの今後の挑戦については、焼津まちかどリポーターの方で「ニュー焼津構想で焼津を世界ブランドにする関根 仁さんの挑戦」と題した記事を掲載する予定です。
お楽しみに!