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「いもたろう」誕生に秘めた想い
たった一人の熱狂から世界が動き出す想いをインタビューする「On the One」。今回お話を伺ったのは、大学時代のヒッチハイクで出会いの価値に気付き、現在はおいも屋さん〈cocot〉を開業している、いもたろうこと片寄 裕介さん。前編では、大学時代のヒッチハイクからおいも屋さん〈cocot〉開業までの軌跡を伺いました。
(いもたろうこと、片寄 裕介さん)
片寄 裕介(いもたろう)さん
1995年生まれ。さつまいも大国の茨城県出身。
「あったらいいのに〜!」をカタチにする株式会社nonii代表。
18歳の頃にヒッチハイクの旅で、さまざまな出会いの中で全国をまわったことをきっかけに、人生観が大きく変わり、20歳の頃には「世界ドリームプロジェクト」を立ち上げ、東南アジアを放浪しながら夢尋ねの旅を実施。その後作業療法士になり、回復期リハビリテーション病院にて3年間勤務。
地域のひとが世代幅広く自然に集える、おいも屋さんココットを起業。現在は株式会社noniiとして法人化し、事業拡大をしている。静岡最大の焼き芋イベント『おいもフェス SHIZUOKA』主催。
ヒッチハイクで気づいた「ひととの出会いの価値」
編集長 ケンフィー焼き芋屋さんを始めたきっかけってなんですか?
片寄 裕介(いもたろう)さん元々、最初から「焼き芋屋さんやりたい」「独立したい」ということは思ってなかったんです。高校を卒業する時に、将来は人と直接関われる仕事、「ありがとう」を直接聞ける仕事をやりたくて、その中でも医療・福祉の世界に惹かれ、作業療法士を目指す大学に行きました。作業療法士の仕事内容というよりは、「その人らしさ」を大切にする理念に心を動かされて選んだ仕事です。
編集長 ケンフィーそこから考えると、大きな転換ですよね。
片寄 裕介(いもたろう)さんまだ自分が焼き芋屋さんになるとはこの時はまだ思っていませんでした。笑
大学に入ってからは、作業療法士を目指して勉強しつつ、大学1年生の頃から旅にハマってしまって、ヒッチハイクで約100台以上の出会いもありました。
編集長 ケンフィーそれほどまでに熱中する趣味が見つかったんですね。
片寄 裕介(いもたろう)さんヒッチハイクが幅広い世代、価値観をもつ人と出会うきっかけとなり、色々な生き方があり、色々なカタチで人生を楽しんでいる人がいることに気づきました。数日で人生がひっくり返るような衝撃で、これまでの人生の中でも一番の転換点だったと思います。考え方、視野が変わった瞬間です。
編集長 ケンフィーどういうふうに衝撃的な出来事だったんですか?
片寄 裕介(いもたろう)さんこれまで家族、学校の友達くらいの繋がりしかない中で、何も違和感はなかったですが、ヒッチハイクをしたときに自分がいままで知らなかった、触れることのなかった価値観の中で生きる人たちとも出会い、これまでの知っている世界、視野が狭かったことに気づきました。
編集長 ケンフィーだからこそヒッチハイクが自分の見ている世界を広げてくれたという感じなんですね。
片寄 裕介(いもたろう)さんいろんな大人に会って、いろんな仕事している人に話を聞いて、どんな生き方にも価値があって、とてもキラキラしていました。自分ももっと自由に、自分自身でやりたいこと、生き方を選択していっていいんだと気づきました。
編集長 ケンフィーヒッチハイクしながら、作業療法士の勉強もされていたんですね。
片寄 裕介(いもたろう)さん作業療法士の方もなりたい夢には変わりはなかったので、軸がブレることはなかったです。ヒッチハイクして、社会人になる前にもっと日本以外にも文化の違うところを見てみたくなりました。
編集長 ケンフィー医療もヒッチハイクも、大元の軸は同じだということですね。
片寄 裕介(いもたろう)さん人が好きで、医療の仕事も、旅も、出会いやひとと接している瞬間が楽しいんですよね。海外に行くとしても、世界遺産を見てみたいとかじゃなくて、現地や旅人同士で交流するのが楽しくて、ヒッチハイクやバックパッカーをしていました。
編集長 ケンフィーなるほど。いろんな経験をした中で、作業療法士にこだわらなくても、いろんな選択肢があったと思いますが、作業療法士になったのにはどういった理由があったのでしょうか?
片寄 裕介(いもたろう)さんヒッチハイクなど旅を通じて、たくさんの人から貴重な経験や恩をもらいました。そんなときに、ふと振り返ると、人に与えてもらってばかりで何も貢献できていない自分の存在に、だんだんもどかしさが出てきました。夢は変わっていなかったので、作業療法士として社会に貢献できる存在になりたいと感じました。
旅はそのとき瞬間での出会いで、それっきりとなってしまうことも多いですが、作業療法士の仕事はより多くの時間をひとりひとりとじっくり寄り添えて、相手の人生をよりよい方向にもっていくことができる部分も魅力でした。
作業療法士の仕事から焼き芋店開業のきっかけ
編集長 ケンフィー実際、作業療法士の仕事を始めてみてどうでしたか?
片寄 裕介(いもたろう)さん作業療法士になれたのは希望通りで、やりがいを感じながら働いていました。
編集長 ケンフィー具体的にはどういったやりがいを感じましたか?
片寄 裕介(いもたろう)さん寝たきりの状態から、一緒に毎日リハビリをして、目に見えるようにどんどん良くなっていって、退院できるようになったり、「ありがとう」と言われたりしたことで、大きなやりがいと喜びがありました。
編集長 ケンフィーやりがいを感じていた作業療法士の仕事をやめて独立するようになったのは、どんなきっかけがありましたか?
片寄 裕介(いもたろう)さん毎日やりがいを感じていたので、(作業療法士は)今でも好きな仕事です。自分の中では、作業療法士の仕事を捨てたわけではなく、作業療法士としての考え方などは今の自分にも活きているものだと思っています。あとは自分自身の性格を分析してみると、ヒッチハイクや海外をバックパッカーする中で、新しい刺激や環境の変化が好きで、大きな組織だと、変えていきづらい部分も自分で仕事をつくっていけば全部自由に選択できるというところに魅力を感じ、独立を選びました。
編集長 ケンフィー僕も同じような感じで独立したので、それはすごく分かります。
片寄 裕介(いもたろう)さん自分自身で判断し、進めていくときのスピード感とやりがい。失敗しても自分の責任と思えるのが心地いいです。
編集長 ケンフィーなるほど。
片寄 裕介(いもたろう)さんそれから、上の人たちを見れば、10年後の自分がなんとなくイメージできると思うのですが、自分がなりたい姿かというと、少し疑問が残りました。もっと自分で選択して、切り開いていきたいと感じるようになりました。
社会人1年目から温めてきた夢
片寄 裕介(いもたろう)さん社会人1年目のときから夢ができたのですが、夜にお布団の中でワクワクしながら頭に浮かんできたことを覚えています。
ここからようやくお芋の話につながっていきます(笑) 話長いですね・・
編集長 ケンフィーいえいえ、貴重なお話ありがとうございます。どんなことを考えていたんですか?
片寄 裕介(いもたろう)さん自分でお店を作りたいなと思うようになりました。
病院という場も必ずなくてはならないものですが、「お店」という存在も魅力だなと思いました。
編集長 ケンフィーというと?
片寄 裕介(いもたろう)さんリハビリでは、その人がその人らしくいるために、本人の意思や気持ちを尊重していきたいのですが、病院という環境だと本来のリハビリテーションの意味合いからズレてしまったり、矛盾が生じてしまうこともあります。
人はこころが動けば、身体も動く。人生に彩りができる。
「今日は近所のお蕎麦屋さんに行きたいな」となっても、病院のルールで行けなかったり。求められていることが提供しづらいことも多くあります。
編集長 ケンフィーそれがお店だと解消できるというわけですね。
片寄 裕介(いもたろう)さん“お店”は来たいと思うひとだけがくる。当たり前なことですが、来るひとが選択できるのが心地ちよい関係だなと思いました。
作業療法士時代、本当に必要なひとにだけ、必要なことを提供するだけでは成り立っていかないもどかしさもあったので、”お店”はいいなって思いました。
編集長 ケンフィーなるほど。元々直接感謝をいただける仕事に興味があったけど、その中でも自分に合った形が「リハビリ」ではなく「お店」だったんですね。
片寄 裕介(いもたろう)さんそうです。自分は地域にでて、もっと自由な環境で、ひとが集う空間をつくり、ひとの心を動かせるほうが自分のやりたい形にはあっているなと感じました。